平安時代に死刑が行われなかった理由(背景)について質問致します。平安時...
| 質問 |
平安時代に死刑が行われなかった理由(背景)について質問致します。平安時代に死刑が行われなかった理由(背景)は、怨霊信仰の拡大解釈によるものと考えて居りましたが、梅原猛氏の「怨霊説」に対する御意見を拝読し、御意見を御聞きしたいと考えました。(参考事項)Wikipedia「薬子の変 経過」の記述この日の夜に仲成は射殺された。これは平安時代の政権が律令に基づいて死刑として処罰した数少ない事例であり、これ以降1156年の保元の乱で源為義が死刑執行されるまで約346年間一件も無い。Wikipedia「怨霊信仰 怨霊から御霊へ」の記述御霊信仰が明確化するのは平安時代以降であるが、その上限が何処まで遡れるかどうかは、人によって理解が一定していない。史料的に確実な例としてあげられるのは、『続日本紀』の玄昉の卒伝にみえる藤原広継の怨霊であるが、それ以前については意見がわかれている。 |
| 回答 |
平安時代の長い間、死刑執行がなかったのは事実です。しかし、それは裁判による刑として執行されなかったのであって、犯罪者の生命が奪われることがなかったということではありません。実際には、数多くの犯罪者が政府の関与のもとに殺害されていたという史実があります。なお、保元の乱以前の死刑は、薬子の変(810年)のときの藤原仲成が最後といわれますが、これは拘禁中を何者かに射殺されたのですから殺人です。後述する死刑と政府関与の殺害との区別という意味で重要なので付記しておきます。平安時代には、殺人、強盗等の重罪人でも、死刑になることはなく流罪で済まされていましたが、このことをもって、死刑が回避されるべきものと見なされていたとはいえません。たとえば、866年、応天門の変のときの伴善男への判決には「斬に当たるも、死一等を降じ、之を遠流に処す」とあります。基本は死刑だが罪一等を減じるという理屈で、少なくとも謀反のような国事犯については、原則死刑という考えが生きていました。保元の乱の敗者に死刑が執行されたのも、謀反人は死刑という原則が支持されていたからと見るべきでしょう。ところが、実際に起きた謀反事件を見ると、平将門は官軍が到着する前に藤原秀郷との戦闘で敗死しました。藤原純友は官軍に投降後、病死したとも殺害されたともいわれます。そのため政府による裁判の機会がありませんでした。他にも、裁判を経ずに殺害された例は、最初にあげた藤原仲成をはじめ、安倍貞任、源義親など多数あります。それも捕えられた後の死という例がほとんどです。平忠常のように病死とされている例も、実は他殺かもしれません。これは偶然とはいえないでしょう。正規の裁判をすると面倒が多いので、現場の判断で殺してしまったというのが実情と考えられます。重要参考人を殺した者が処罰もされないのは、政府も了解していたことを意味します。死刑は行われませんでしたが、政府が関与する犯罪者殺害は、半ば公然と行われていたわけです。検非違使が犯罪者を捕らえるときも、同じように問答無用で殺害することが多かったと思われます。怨霊の恐怖を前提にすれば、こんなことは起こり得ません。多少でも関係ある相手には片端から祟るのが怨霊です。現場にはいなくても、なんらかの関係があれば、怨霊からは逃げられないはずです。平安貴族は、怨霊を恐れてはいましたが、一方で「怪力乱神を語らず」という儒教的教養をも備えていました。また、すべて臣民は天皇の命に従わねばならないという王土王法思想も持ち合わせていました。この考え方からは、王法に叛いて滅亡した者が祟りをなすのは筋違いというものです。彼らは怨霊を克服する論理を持っていたのであり、怨霊の恐怖の前になす術もなかったのではないのです。それでは、謀反は死刑としても、なぜ、殺人、強盗等の刑事犯には死刑が適用されないのかというと、平安貴族は穢れ、特に死穢を極度に嫌ったという事情があります。現代人は犯罪を善悪という観点で考えますが、中世人は穢れと意識していました。中世人の感覚では、殺人も穢れの一つであって、これを死刑にするのは穢れに穢れを重ねることでしかありません。穢れなら見えないところへ追い払えば良いわけで、それが流罪を選択させました。被害者の立場はどうなるんだという議論も出そうですが、平安貴族からすれば、庶民などは「心もなき者ども」でしかなく、自分たちが穢れに染まらないかのほうが重要だったのです。平安貴族の意識には、このような「死穢への嫌悪」と「怨霊の恐怖」が混在していましたが、この二つは往々にして混同されているように思います。両者は一見似ていますが、死穢はある程度までは回避することができ、仮に触れることがあっても物忌み等で回復が可能です。怨霊のように不意に出現して、ときには命まで取られる心配はありません。極論すれば、死穢は後始末が面倒くさいから関わりたくないのであって、恐怖すべきものではありません。庶民への死刑がなかったのは、平安貴族が怨霊を恐れたのではなく、面倒な死穢の処理をしてまで、自分たちとは縁のない巷の事件などに関わりたくなかったからです。そこが中国のような律令国家を作ろうとしていた奈良朝貴族との違いではないでしょうか。しかし、こんな平安貴族でも、謀反のような王権の存立に関わる重大事件には、死穢を覚悟してでも死刑を選択することは、保元の乱の例で明らかです。それまで死刑執行がなかったのは、その間、政府が死刑執行を必要とする場面がなかった結果だと思います。 |
| 回答数 |
1 |
| 質問日 |
2011年04月10日 |
| 解決日 |
2011年04月13日 |
| 詳細 |
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1259869207 |
続日本紀(しょくにほんぎ)の書き下しがのっているサイトを御存じの方はい...
| 質問 |
続日本紀(しょくにほんぎ)の書き下しがのっているサイトを御存じの方はいらっしゃいませんか??汗あれこれとサイトをまわっているのですが、どうしても書き下し文だけがみつかりません(+_+) |
| 回答 |
私も見つかりません。しいていえば、書き下し文で読まなければならないものとも思えません。正確な原文があればネットでは間に合うと思います。私がいつも見るのでは、外字がわからず(これは仕方がない面もある)、校正が公開後あまり行われていないようで、誤植が時々見つかる、結構記事の検索がしにくい、といった難点があります。紙の本は何種類もあるのに。やはり価値があり、便利な本はネット上にはまずないものだと諦めるしかないですね。国会図書館の近代デジタルにしても、画像が不鮮明で非常に読みにくいし、スクロールも不便で、しかも案外基本的な本がなく、落書きや欠頁などのある欠陥品も相当ある。中国では、大量の漢文が公開されているけれども、それでも、二十四史すべてはないし、検索は出来ても、本文は見られない。しかもやはりこれにも時々誤植がある。結局現時点では、研究には勿論、趣味で読むぶんにも、紙の本には遙かに及ばないと言わざるをえません。その紙の本も近くの市立図書館ぐらいではお話にならないので、ネット社会といっても、なかなか現実はきびしいです。 |
| 回答数 |
1 |
| 質問日 |
2011年04月07日 |
| 解決日 |
2011年04月08日 |
| 詳細 |
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1159656246 |
「続日本紀」は、しょくにほんぎと読みますが、どうして「しょく」「ぎ」に...
| 質問 |
「続日本紀」は、しょくにほんぎと読みますが、どうして「しょく」「ぎ」になるのですか?紀は「ぎ」でも「き」でもあるみたいですが、なぜ「しょく」となるのでしょうか? |
| 回答 |
漢字には、伝わった年代によって、「呉音」や「漢音」など、何種類かの読み方があります。「続」を「しょく」と読むのは「漢音」で、「ぞく」と読むのは「呉音」です。『広辞苑』を引きますと、しょく【続】書名などに冠して、つづきものであることを示す語。「―日本紀」とありますので、書名に冠するときは「しょく」と読むという決まりが、昔はあったのでしょう(今は「ぞく」と読む場合がほとんどです)。では、どうして書物の名前に冠した場合は「しょく」と読むのか、と問われても、昔の人がそう決めたから、としか言いようがないと思います。あと、「紀」を「ぎ」と読むのは、「ん」の次に来ているからだと思います。「三本」を「さんほん」と読まずに「さんぼん」と濁るように、「ん」の後ろは濁音化する場合がよくあります。 |
| 回答数 |
1 |
| 質問日 |
2010年10月10日 |
| 解決日 |
2010年10月11日 |
| 詳細 |
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1048403900 |
「文献通考」に出ている散楽雑戯とは?朝倉無声の「見世物研究」(春陽堂刊...
| 質問 |
「文献通考」に出ている散楽雑戯とは?朝倉無声の「見世物研究」(春陽堂刊本)の中に以下の文章があります。-----かゝる妖術は我が国に発生したものではない、「文献通考」には「大抵散楽雑戯は幻術多し、皆西域より出づとのやうに、もと印度に起って支那に移り、漢武帝の時に宮廷に於て、散楽の雑戯として演ぜしめたが、其散楽雑戯の本邦に伝来したのは聖武天皇の御代天平年代(729-749)の事である。-----「文献通考」に本当にこのような記述があるのか、それとも無声がダイジェストしてこのような表現にしたものなのかを確認したいと思っています。「漢書」の顔師古の補注や「続日本紀」の聖武天皇の記録とは矛盾するからです。ところが国会図書館で「文献通考」を実際に手にとってみたところ中国の書であるがために全く手に負えませんでした。せめて「文献通考」の日本語版があればと思ったものですが、朝倉無声の文章の出所を確認する手立てはあるのでしょうか。 |
| 回答 |
『文献通考』は中国の13世紀初頭までの様々な制度について記したものであり,『漢書』などの正史その他の史料を引用しています。散楽については『旧唐書』にある「大抵散楽雑戯多幻術,幻術皆出西域,天竺尤甚」という記述を引用したものと思います。http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp:8080/dspace/bitstream/10191/926/1/18_0020.pdf(340 頁)日本における散楽の確実な史料は,『東大寺要録』巻第二(醍醐寺本)の供養章第三にある天平勝宝4年(752)の「開眼供養会」に関するものが最初で,そこでは食朝臣息人と高向朝臣家主の二人が「唐散楽頭」になっています。『続日本紀』には延暦元年7月11日条に「廃餅戸。散楽戸。」とあるだけで,聖武年間の記事には散楽についての記述はありません。また,散楽という言葉が登場するのは中国の隋代ですから,顔師古の注は唐代ですが,『漢書』の本文には散楽という言葉はないと思います。なお,『文献通考』は早稲田大学図書館に明版の版本が所蔵されており,散楽については巻一百四十一「楽考・楽歌」以下に収録されていると思います。http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i12/i12_00100/index.htmlhttp://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i12/i12_00100/i12_00100_0026/i12_00100_0026.htmlhttp://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i12/i12_00100/i12_00100_0026/i12_00100_0026_p0003.jpg |
| 回答数 |
1 |
| 質問日 |
2010年05月14日 |
| 解決日 |
2010年05月15日 |
| 詳細 |
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1040801780 |
古事記・日本書紀・続日本紀・の本当のヤマト読みは、おのおの、フルコトシ...
| 質問 |
古事記・日本書紀・続日本紀・の本当のヤマト読みは、おのおの、フルコトシルシ・ヒノモトカキフミ・ツヅキヒノモトカキフミ ではないでしょうか・・・・。 |
| 回答 |
古事記 ふることふみ日本書紀 やまとぶみ続日本紀 つづきやまとふみ |
| 回答数 |
1 |
| 質問日 |
2010年05月09日 |
| 解決日 |
2010年05月09日 |
| 詳細 |
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1040563700 |